商工会議所会頭の呼びかけに応じ、地元有志が『恋しき』再生に立ち上がる

恋しきが休館中だった平成17年(2005年)、当時の商工会議所の会頭・松坂敬太郎さんが「みんなの力で次世代へ残しましょう」と呼びかけて、それに応じた地元の企業と市民有志の方々がお金を出し合ってここを買い取った。その時に商工会議所の一員として関わり始めたのがきっかけです。本格的に『恋しき』の運営に携わり始めたのは平成21年から。平成24年からは土地・建物の管理・運営、観光協会の業務委託を受けて特産品などの物販をしたり、イベントの企画をしています。前オーナーさんとの連携をサポートし、地域の方々や関わりを持ってくださっている企業、市や県と『恋しき』をつなぐ橋渡し役もしています。

恋しきは、洗練された大人の社交場、そして文化的な成熟を感じさせる場所

僕が生まれたのは恋しきから歩いて5分ほどの場所。幼少期をこの周辺で過ごしました。日本一の石灯篭や商店街、中心市街地は路地の隅々まで覚えているのに、なぜか恋しきのあたりだけがブラックボックスのように記憶から抜け落ちとる。恋しきの保存・再生の事業に関わるようになって、地域の人や全オーナーさんにいろんな話を聞くと、なるほど子どもの記憶には残らない大人の社交場だったということを知りました。地域の人にとっては敷居が高い場所、高嶺の花のような存在だったんでしょう。ただ、敷居が高いと感じる理由。それは料金の高さだけじゃなかったんじゃないかな。

恋しきには文化人も多く訪れています

「恋しき」には政治家や様々な著名人が来られとるんですけど、その中には文化人も多いんですよね。吉川英治さん、金島桂花さん、田山花袋さん、井伏鱒二さんらが泊まれたことからも分かるように、文化レベルの高さにも理由があったんじゃないかと考えています。茶道、香道、花道、三味線、和歌などいわゆる歌舞音曲と呼ばれる文化の発信地だった。庭を見ても、お茶をするためにあるような配置になっとるんでね。単に旅館というだけでなく、お客様をお招きし、おもてなしする。そのおもてなしの中で文化的な成熟を感じさせる場所だったんじゃないでしょうか。
代々の持ち主がそういう趣向の持ち主だったんです。『恋しき』に残された器、や輪島塗のお膳も季節ごとの趣向を凝らしたものですし、襖や欄間のあしらいなど細部まで趣向が凝らしてあるのが今見ても明らかです。
また、『恋しき』いう名前からして現代的なセンスの持ち主だったはずですよね。名前の由来は正式に分かってないんです。魚の鯉料理を出していたことから鯉一色と書いて恋しきになったという説もあるけど、それを記したものは何も残っていない。ただ、「戀一色」と書いた大正時代のお膳箱が実際に残ってるんです。僕の想像では「また行ってみたい」と思う場所、恋しくなる場所という意味が込められとるんじゃないかなと想像したりします。